誰もが知るレオナルド・ダ・ビンチ作「最後の晩餐」も実はテンペラの技法です
厳密にはフレスコ的な基底材(壁画)+テンペラ絵具です↓
ウィキにも詳しく説明あります!
同じテンペラ画でよく知られているのは
ボッティチェリ作「ビーナスの誕生」ですね↓
私が描いている【油彩テンペラ画】は、上記テンペラの白色と樹脂絵具を併用してます。
西洋美術史のラスコーの壁画から始まり→フレスコ画→そしてテンペラ画から油彩画へ、、
と続く大きな流れの中で、テンペラ画から油彩画への移行期に生まれた画法です。
上の「最後の晩餐」と同じくレオナルド・ダ・ビンチ作。「受胎告知」です。板に油彩テンペラと
まさに同じ画法です。
↑フィレンツェにある”ウフィッツイ美術館”にあります。
ファンアイク作 「アルノルフィーニ夫妻像」
テンペラって【生卵が原料(タンパク質固化=顔料の定着)】
【15世紀の画法(=ゴッホなど印象派以前)】の他にも面白いストーリーが沢山あります。
手間と時間が非常にかかりますが、何層もの絵の具層が、複雑で美しい絵肌となり
長い時間を画面に封じ込めたような、繊細かつ堅牢な、他には変えがたい魅力
があります。(漆の工程に似た印象も??)
なぜテンペラ画を始めたのか?
油絵を描いていた私が、油彩テンペラ、個展画法に出会ったのは、10代の美術学校時代です。
知人から展示のチケットをいただく機会が沢山ありまして
(大企業にお勤めで、そこがスポンサーの展示のチケットが毎月沢山いただけた)
学校帰りには必ず美術館やギャラリーに立ち寄りました。
1日1展示でなく、多いときは3展示とか、文字通り浴びるように見ると、
自分の絵の好き嫌いも明確になってくる。最初は「絵ならなんでも好き」という漠然とした気持ちが、
「古典絵画が好き」と変化していき、輪郭線の強い平面的な表現や、透明感、長い時間を感じさせる
ちょっとハゲた金箔に展覧会で出会うと、恋のように胸がドキドキする(笑)
(同じ理由で、日本画や仏像も好きです)
キャプションにある「テンペラ」「油彩テンペラ」「混合技法」という単語が気になっていた頃に
学校の夏期講習で「テンペラ講座」がありました。
せっかちな私には、板から作る、とか絵の具を全色作る、とか手間と時間がすごくて
結構ジリジリしたのですが、長い時間かけて完成した時の達成感や充実感、重み、のようなものも
大変さと比例してますので、かつてない達成感を感じました。
「テンペラ講座」の先生が上野・御徒町に教室を持っていたので、
仕事後、夕方にせっせと通いました。半年かけて金箔を貼ったり、コツコツ制作をして
充実した生活を送っていたのですが、ある大事件が!!!
あと一息で完成のはずだった、初油彩テンペラの絵を、なんと電車におき忘れてしまったのです(涙)
仕事を終えて、御徒町の教室に通い、高尾まで戻ってくると、さすがにクタクタだったようで
網棚に大事な絵を乗せたまま、家に帰ってしまったのでした。
「あ〜〜!!!!!」夜中に気づいて、すぐ駅に連絡しましたが「ありません」の返事。
諦めきれずに、翌日も最寄駅の窓口に行ったものの、やはりない。
あんな大きなものが出てこないなんて、、!半年の自分の時間と手間がゼロになったかと思うと
切なくて、悔しくて、思い出しては泣いたり、ため息をついたり。
結局、中央線の駅のすべての遺失物コーナーに直接出向いて出てこなかったらすっぱり諦めようと決め、
毎日、途中下車しては、窓口で問い合わせたのでした。が出てこない。
車内で新聞を集める浮浪者のおじさんに、勇気を出して訪ねまくっても、やっぱり出てこず。。
(あの絵は一体どこにいたのだろう??)
こうなったら御徒町の週1の教室じゃなくて、毎日油彩テンペラを
描ける場所に行って、新しく描こう!!!と思い立ち、悔しさをエネルギーに変えて、
古典画法、油彩テンペラの教室を猛烈にリサーチ。
↑まだインターネットが普及してないのでもっはら美術手帖とか、人づてに聞くとか地味な作業。
千葉から神奈川のありとあらゆる教室を見学し、問い合わせ、最終的に北鎌倉の油彩テンペラ工房に
毎日通える学校で、油彩テンペラを本格的に学ぶことになったのでした。
あの時、初テンペラの絵を無くさなかったら、本格的に描ける学校に通おう!って思い立つことも
なかったかもしれない。
だから、出会いはもちろん、いろんな失敗も事件も、無駄なものなんて、何一つないですよね。
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ごくごく簡単にまとめました。青字をクリックで、ぜひご一読ください↓
生卵を使った絵の具って?【制作のこと①】
え?板も作ってるの??【制作のこと②】
どうして画家になったの?【制作のこと③】
なぜこの画法(油彩テンペラ)?【制作のこと⑤】
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